施基皇子(志貴皇子)「田原天皇」

宇治田原で、今上天皇のご先祖に当たる歴史上にも、万葉集でも多くの秀歌で高名なお方、施基皇子(志貴皇子)が住まわれていたことを多くの人々がご存知ないと思います。
宇治田原の歴史を語る上に於いて、すべての神社仏閣を超えての存在をお伝えすることが大切なことだと考えます。
皇統三十八第天智天皇(662)の第七皇子で、施基皇子(志貴皇子)、母は当時、北陸の大豪族越道君の娘、越道君伊羅都売と言われています。
施基皇子はこの地で薨去され、皇子の湯原王(第二子)がお墓のそばに神殿を建てて「岩代大明神」と号したといわれています。
のちに光仁天皇(施基皇子の第六子)は、即位の翌月6日に詔して、亡き父施基皇子に「春日山天皇」またの名を「田原天皇」の号を贈り勅使を派遣し田原天皇社という御廟を建てられたことを物語っているのです。
次いで宝亀三年(七七二)九月、勅使前の右大臣吉備真備を遣わして正一位田原天皇と尊崇し、同時に以前よりあった「岩代大明神」を田原天皇社として、神封百二十戸、位田十二町を捧げられました。
その場所は、この田原天皇社旧跡の石碑の場所ではなく、山上の岩の上であったのです。
後年、神社は明治まであった田原天皇社旧跡の石碑の場所に移された由です。写真は、ここに田原天皇の御社が存在したことを示しています。

田原天皇社旧跡の石碑
施基皇子旧跡石碑
施基皇子高札