持統天皇の崩御の大喪の大役(造御竈長官)を施基皇子

ともあれ、施基皇子は持統天皇の崩御の大喪の大役(造御竈長官)を施基皇子が行っているのです。
皇子にとっては、天智天皇の皇子として異母姉である持統天皇は天武朝以来の肉親の姉、育ての親ともいえる存在でしたから当然の役柄であったと言えるでしょう。

持統天皇の崩御の翌年ごろ、邸宅を高尾から清流を下った荒木の里に移されたと言い伝えられています。
現在はその邸宅跡は定かではありません。
千三百年も経た今、荒木の地形は大きく変わり、其の跡を知る手がかりも消え失せています。
大宝令の発せられた大宝元年には、それまでの無位無官の身に、皇族としては最下位ながら四品の位が与えられ、それから次々と登って施基皇子の死去の前年には二品になるのです。
また、皇子の封戸もこの頃、急激に増えているのです。
施基皇子の志とは違っても、朝廷では何らかの形で皇子の力をみと得る時期に差し掛かっていたと思われます。

律令国家としての道

第41代持統天皇は六九七年、軽皇子に皇位を譲ったが、実際は太上天皇として実際の政務は執り行っていました。

長く途絶えていた年号を復活し大宝元年(七〇一)文武天皇五年の時です。
同時に大宝律令が発せられました。

律令国家の実現を最初に目指した聖徳太子から約百年余、天智天皇からは半世紀、本格的に取り組み始めた天武天皇からで
も三十年のちに、持統太上天皇の精力的な熱意で国家の法典ともいうべき律令が制定され、平安中期の崩壊期まで律令国家としての道を歩み始めるのです。

天皇家系図