施基皇子(志貴皇子)は、第49代光仁天皇の父

施基皇子(志貴皇子)は、第49代光仁天皇の父であり、第50代桓武天皇の祖父で、今上天皇の祖先になる方です。
そして、かの有名な「万葉集」の残された万葉時代の最盛期の白鳳時代に生まれ、「万葉集」に6編の秀歌を残されています。
文字通り万葉の時代に生きた施基皇子(志貴皇子)の人間像が浮かび上がっているのが、これらの秀歌です。
そして、浮かび上がる人間像は、賢明で理知的、直感力に優れ、また洞察力に富んでおられたと感じられます。
そして天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇と続く天武天皇系の流れの中にあって、どちらかと言えば中央政治からは除外され、また自らもあまり好んで政治に立ち入ることがなかった一生です。
しかし、卑屈な面や行動もなく、自然に親しみ、そこに大きな喜びを見出し、日々を悠々と率直に過ごされるために、都から離れた、宇治田原の高尾(こうお)の里に住まいを決められたのは当然のことだと考えることができます。
この伝承には正史の上では表されていないのですが、宇治田原の伝承にある施基皇子の遺跡について、調べたことをお伝えしたいと思います。
まず、高尾(こうお)の邸宅跡は、高尾の西北端の一番高いところ、標高約四百メートルの東西に長い、比較的平坦な地の続く場所で、西は急斜面になっていて宇治川に落ち、東は緩やかな平地が徐々に登りとなって大峰山に続いています。
南は大きな谷になっていて、荒木、郷之口の各々の谷に分かれています。

皇統三十八代天智天皇の御代

皇統三十八代天智天皇の御代、天皇は皇后のほかに八人の妃がおられ、四人の皇子と十人の皇女が生まれています。
皇后には子がなく、嬪と称する中央有力豪族出身の妃には一人の皇子と七人の皇女が生まれたが、その大事な一人の皇子は八歳で亡くなられました。
宮人と称する、中流以下の中央豪族や地方豪族出身の妃からは、三人の皇子と三人の皇女が生まれています。
施基皇子(志貴皇子)の母もこの宮人であったので、身分の低い母からの出生の皇子と言えます。
天智天皇が薨去されてから「壬申の乱」を経て、天武天皇が政権を担うようになりました。
しかし、天武天皇は、兄の天智天皇以上に心の広い徳望のあった天皇で天智天皇の残された皇子、皇女に対しても、自分の多くの皇子、皇女と分け隔てなく養育をされたと伝わります。
しかし、当時の唯一の歴史書である「古事記」「日本書紀」は、それが天武天皇系によって作られた関係もあって、天智天皇系のことは、よほど重大なことでない限り載せていないので。施基(志貴)皇子の生年についてはまったく不明です。
しかし天武天皇との皇子の関係から推察して、凡そ、天智天皇5年(666)の前後一、二年くらいの出生と考えられます。
従って父であった天智天皇の薨去は皇子が6歳か7歳の時ということになります。
壬申の乱で兄の大友が死に、大津京の滅亡は、その翌年であるから、わずか6、7歳の施基皇子はこの激動をどのように感じておられたでしょうか。

施基皇子(志貴皇子)「田原天皇」

宇治田原で、今上天皇のご先祖に当たる歴史上にも、万葉集でも多くの秀歌で高名なお方、施基皇子(志貴皇子)が住まわれていたことを多くの人々がご存知ないと思います。
宇治田原の歴史を語る上に於いて、すべての神社仏閣を超えての存在をお伝えすることが大切なことだと考えます。
皇統三十八第天智天皇(662)の第七皇子で、施基皇子(志貴皇子)、母は当時、北陸の大豪族越道君の娘、越道君伊羅都売と言われています。
施基皇子はこの地で薨去され、皇子の湯原王(第二子)がお墓のそばに神殿を建てて「岩代大明神」と号したといわれています。
のちに光仁天皇(施基皇子の第六子)は、即位の翌月6日に詔して、亡き父施基皇子に「春日山天皇」またの名を「田原天皇」の号を贈り勅使を派遣し田原天皇社という御廟を建てられたことを物語っているのです。
次いで宝亀三年(七七二)九月、勅使前の右大臣吉備真備を遣わして正一位田原天皇と尊崇し、同時に以前よりあった「岩代大明神」を田原天皇社として、神封百二十戸、位田十二町を捧げられました。
その場所は、この田原天皇社旧跡の石碑の場所ではなく、山上の岩の上であったのです。
後年、神社は明治まであった田原天皇社旧跡の石碑の場所に移された由です。写真は、ここに田原天皇の御社が存在したことを示しています。

田原天皇社旧跡の石碑
施基皇子旧跡石碑
施基皇子高札