平城京遷都

平城京遷都
元明天皇即位の翌年、和銅元年(708)前年より議題とされていた遷都の件が決定しました。
はるか昔より天皇の宮は飛鳥地方に置くのを常とし、特にここ十六年の間、都は広大で豪壮な藤原の宮にありましたが、ここに宮は奈良盆地の北端奈良山の南に遷ることになり、未だかってない壮大な都城を建設することになったのです。
凡その外観が整ったのが和銅三年(710)、その年の三月十六日に元明天皇は薨去されたのです。
施基皇子の春日山の本邸は幸い平城京の中に含まれることなく、昔の姿はとどめたが、施基皇子は、やはり近くまで押し寄せる都の雰囲気は好ましく思われず、都城造営の和銅元年(708)から9年間はほとんどが、宇治田原荒木の邸宅で静かに過ごされておられたと伝わります。

霊亀二年(718)八月施基皇子は安らかな永い眠りにつかれました。八月十一日とも九日ともいわれています。

薨去の御年は50歳前後と推定されます。
現在の御陵は、奈良市の東高円山の東南麓にある田原陵です。

御子の光仁天皇の御陵も同じく田原の日笠にあり、田原東陵と言われています。

白壁王(後の光仁天皇)の出生

白壁王(後の光仁天皇)の出生
和銅元年(708)2月の終わりごろのある日のことである。
宇治田原の郷一面は春の光を浴びて山野がひと際美しい早春の日でした。
その朝早く、大和の国「ならしの岡」にあった邸の椽姫のもとから、喜ばしい知らせが届いたのです。
今朝早く皇子が誕生したという喜ばしい知らせでした。
第六子で、皇子としては、春日王、湯原王に次いで三番目でした。
施基皇子は春の日の暖かさと喜びをつくづくと感じられたのです。
この喜びは自然と胸の中から沸き上がり、次の秀歌が読み出されたのです。

石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも

(現代語訳)岩の上を激しく流れる滝のほとりでは、さわらびが芽を出す春になったことだなぁ。
私の人生にも、これから真の春がやってくるのであろうか
万葉集
この皇子は「白壁王」と名付けられました。
後に光仁天皇となられる方ですが、この時は父の施基皇子も、母の椽姫も、そのようなことは知る由もないのです。
ただ、元気に立派に成長してくれることを願う心でいっぱいでした。
白壁王は性格温厚、無口で情も厚かった。
長ずるに及んでは酒もよくたしなまれたようです。
天平9年(737)30歳で無位から従四位下になられ、そののち中納言、大納言を経て、宝亀元年(770)満62歳にして光仁天皇として皇位につかれました。
その間、帰化系の豪族で添上郡高野の高野朝臣乙継の娘新笠を妃とされ、山部親王、早良親王をもうけられた。
山部親王は後の桓武天皇である。
今の皇室につながる壮大な歴史のロマンであります。

今上天皇への系譜

大宝4年若しくは5年ごろ、施基皇子は大和国生駒郡の生駒川が大和川に流れ込む辺りの「ならしの岡(岩瀬の森)」という丘陵地に邸宅を構えられた。
それは、紀朝臣諸人の娘椽姫(とちひめ)を妃として住まわれるためでした。
紀氏は武内宿禰の裔で朝臣の姓を賜り、大和添上郡の西南部に居を構えた豪族であった。
椽姫はのちに施基皇子の第六子白壁王(のちの光仁天皇)を生んでいます。
そして、光仁天皇の皇子が桓武天皇であり、以来連綿として今の天皇家に繋がっているのです。
椽姫の父の諸人は「続日本書紀」に光仁天皇が即位されたときに、太政大臣の位を追位しています。
宇治田原の大宮神社の摂社には紀朝臣諸人を祀っていますが、これは、施基皇子や、光仁天皇(白壁皇子)との関係にあると考えられます。
この万葉集の歌は、施基皇子が「ならしの岡」におられた時に読まれた御歌です。
神名火の磐瀬の杜の霍公鳥毛無の岳に何時か来鳴かむ
(現代語訳)神のいます石瀬の森のほととぎすよ、毛無の岡にいつ来て鳴いてくれるのだろうか

万葉集

持統天皇の崩御の大喪の大役(造御竈長官)を施基皇子

ともあれ、施基皇子は持統天皇の崩御の大喪の大役(造御竈長官)を施基皇子が行っているのです。
皇子にとっては、天智天皇の皇子として異母姉である持統天皇は天武朝以来の肉親の姉、育ての親ともいえる存在でしたから当然の役柄であったと言えるでしょう。

持統天皇の崩御の翌年ごろ、邸宅を高尾から清流を下った荒木の里に移されたと言い伝えられています。
現在はその邸宅跡は定かではありません。
千三百年も経た今、荒木の地形は大きく変わり、其の跡を知る手がかりも消え失せています。
大宝令の発せられた大宝元年には、それまでの無位無官の身に、皇族としては最下位ながら四品の位が与えられ、それから次々と登って施基皇子の死去の前年には二品になるのです。
また、皇子の封戸もこの頃、急激に増えているのです。
施基皇子の志とは違っても、朝廷では何らかの形で皇子の力をみと得る時期に差し掛かっていたと思われます。

律令国家としての道

第41代持統天皇は六九七年、軽皇子に皇位を譲ったが、実際は太上天皇として実際の政務は執り行っていました。

長く途絶えていた年号を復活し大宝元年(七〇一)文武天皇五年の時です。
同時に大宝律令が発せられました。

律令国家の実現を最初に目指した聖徳太子から約百年余、天智天皇からは半世紀、本格的に取り組み始めた天武天皇からで
も三十年のちに、持統太上天皇の精力的な熱意で国家の法典ともいうべき律令が制定され、平安中期の崩壊期まで律令国家としての道を歩み始めるのです。

天皇家系図

万葉集秀歌 施基皇子

むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟夫に あひにけるかも
(現代語訳)むささびは木の枝へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。

采女の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
(現代語訳)采女の袖を明日香の風が吹きかえしているよ。いまはもう京も遠くなりむなしく吹くことだなあ。

万葉集

万葉集の秀歌

 

 

石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも
(現代語訳)岩の上を激しく流れる滝のほとりでは、さわらびが芽を出す春になったことだなぁ。

万葉集

 

 

春日山山麓に邸宅

また、後年の平城京、その東の聖域に当たる春日山山麓に邸宅を構え、従妹の忍壁皇子の妹、多紀皇女を妃とされて住まわれていました。
ここは古くから自然の豊かな美しい地でありました。
当時の皇族は都に国家から与えられた官邸をもち、その他に、本邸ともいうべき屋敷を主に大和の好みの地に構えていました。
ゆえに施基皇子の春日山の邸宅も、決して宮廷の空気を嫌っての隠棲の地として解釈すべきではなく、もう一家を持つ年齢にあった皇子の、真の憩いの場としての邸宅であったのでしょう。
多紀皇女との間には、施基皇子の第一子春日王が生まれました。
その系譜は、春日王⇒安貴王⇒市原王と続きます。
それぞれの歌が「万葉集」に載せられていて、施基皇子の系統が万葉一家と称せられる所以になっています。
清澄で自然鑑賞に優れた歌人として『万葉集』に六首の和歌作品を残しておられます。いずれも繊細な美しさに満ち溢れる秀歌であります。

神名火の磐瀬の杜の霍公鳥毛無の岳に何時か来鳴かむ

(現代語訳)神のいます石瀬の森のほととぎすよ、毛無の岡にいつ来て鳴いてくれるのだろうか
万葉集

高尾(こうお)の邸宅跡

高尾(こうお)の邸宅跡
頂上の平坦地には「王院の馬場」「小院の馬場」と称される馬場跡があり「王院の馬場」は長さ約三百メートル、それより西下方の「小院の馬場」は約百メートルあり、施基皇子が馬の調練に使用したと伝えら、今も土地の両肩が少し高くなっていて昔の姿をとどめています。
屋敷跡はこの馬場より北へ約二、三百メートル行った、頂上より少し低いところにあると言われています。
高尾の古老の話を記すと屋敷跡は北東の山を少し削った約二千平方メートルの面積の場所で、上、下二段からなる平地である。
周囲は小石を、敷き溝を掘って排水の便が施されており、土塀の一部も残っているという。
昔は時々、古瓦が出土したと言われ、当時の王家にふさわしい邸宅跡を今にとどめているということである。
高尾(こうお)の地図
施基皇子は何人かの召使や従者、妃などと共に生活を楽しんでおられたようであり、いわゆる世を捨てた隠棲ではないので、ここから各地へ気の趣くままに出かけ、また藤原京の宮中へも参内しておられたと考えられるのです。