歴史街道いづみ路 笠置山寺・恭仁京・海住山寺

弥勒信仰の笠置山寺(笠置町)、は、天智天皇の第三皇子の川島皇子(657年生)が天武天皇の信任を得て、天武天皇が仏教寺院の整備を進める中で川島皇子の献言によって、帰化人伝来の技術力をもって弥勒像を彫顕し、笠置山寺を白鳳11年(682)草創されたのです。
笠置山寺の本尊・弥勒磨崖仏(日本最古最大級)が幾度かの戦火で尊像が消失して強大な光背のみを残すだけになっていましたが、精華町の合資会社 文化財復元センター様のご尽力によりデジタル画像として復元され笠置山寺本堂に安置されています。

笠置の山峡が急にひらけて、木津川の流れもゆるやかになったあたり、甕に似た地形によって、瓶原と呼ばれたというこの地に奈良時代のはじめ、元明天皇が離宮を設けた所といわれています。ついで聖武天皇が橘諸兄に命じて大養徳宮恭仁大宮を造られたのですが、故あって近江の紫香楽宮に遷されることになり、恭仁京の造営は半ばにして止められたのであります。
それが、恭仁京跡として今に残っています。
また、全国に国分寺を設けよとの詔を下され、この恭仁京跡にも国分寺が建てられました。


こうした由緒ある瓶原を一望におさめる海住山の中腹、幽邃の地に、海住山寺が創建されたのは、恭仁京造宮に先立つ六年前、天平七年(735)のことと伝えられております。
大盧舎那仏造立を発願あそばれた聖武天皇が、その工事の平安を祈るため、良弁僧正に勅して一宇を建てさせ、十一面観音菩薩を安置して、藤尾山観音寺と名づけたのに始まるということです。
その後、七十余年を経た承元二年(1208)十一月、笠置山寺におられた解脱上人貞慶が思うところあってこの観音寺の廃址に移り住み、草庵をいとなんで補陀洛山海住山寺と名づけ、旧寺を中興されて、ここに現在の寺基が定められたのでありました。

国宝(鎌倉時代) 五重塔 重要文化財 十一面観音像(本尊)・十一面観音像(奥の院本尊)・四天王像・文殊堂、絹本著色法華曼荼羅図、海住山寺文書など。
現光寺は、海住山寺からみて南東約3km、木津川市加茂町大字北にある小さな寺院で、海住山寺が管理しています。
その詳しい由緒は明らかでありませんが、元禄10年(1697)に再興された時、海住山寺縁起絵巻の詞書撰者である真敬法親王(興福寺一乗院門跡)が落成を賀したこと、正徳2年(1712)に貞慶上人の五百年忌に際して海住山寺の本堂開帳が行われた時、現光寺の住僧が参詣したことなどは、海住山寺とのつながりのもとで歩んできた歴史を物語っています。