橿原神宮 に参詣

令和元年5月6日
橿原神宮 に参詣、
日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。
天照大神あまてらすおおかみの血を引く神倭伊波禮毘古命かむやまといわれびこのみこと(後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から東に向かい、
想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山うねびやまの東南の麓に橿原宮を創建されました。
第一代天皇として即位されたのが紀元元年、今からおよそ2,600余年前のことです。
日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、日本の原点ともいえるでしょう。

橿原神宮がお祀りしているのは、第一代神武天皇と皇后の媛蹈韛五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみことです。神武天皇は、天照大神の天孫・瓊瓊杵尊ににぎのみことより四代目に当たり、正式には「神日本磐余彦火火出見天皇かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと」と申し上げます。皇后の媛蹈韛五十鈴媛命は、大物主命の御娘に当たる方です。
































大神神社 に参詣

令和元年5月6日
大神神社 に参詣、
ご祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)がお山に鎮まるために、古来本殿は設けずに拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝するという原初の神祀りの様を伝える我が国最古の神社です。


当社の創祀そうしに関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀まつられることを望んだとあります。
また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。そして『古事記』同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御魂みたまとして顕現けんげんされ、三輪山に鎮しずまられたということです。
この様に記紀ききの神話に創祀そうしの伝承が明瞭に記されていることは貴重なことで、当社が神代に始まった古社中の古社と認識されており、ご祭神さいじんの神格が如何に高かったかを物語っていると言えます。
そして、ご祭神さいじんがお山に鎮しずまるために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原初げんしょの神祀りの様を今に伝えており、その祭祀さいしの姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。









石上神宮 に参詣

令和元年5月6日
石上神宮 に参詣、
石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、布留山(ふるやま・標高266メートル)の北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。北方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られています。

当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。

総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。

平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。
























石清水八幡宮 に参詣

令和元年5月5日
石清水八幡宮 に参詣、
〝やわたのはちまんさん〟と親しまれる当宮が御鎮座する八幡市・男山は、木津川・宇治川・桂川の三川が合流し淀川となる地点を挟んで天王山と対峙する位置にあり、京・難波間の交通の要地であります。また、南北朝時代の大小様々な戦い、羽柴秀吉と明智光秀の天王山の合戦などで知られる政治上の重要な拠点でもありました。

男山は都からみて裏鬼門(南西の方角)に位置し、鬼門(北東の方角)に位置する比叡山延暦寺とともに都の守護、国家鎮護の社として篤い崇敬を受けてきました。
この経済上、政治上、そして信仰上の要の地に御鎮座され、日本を平和と繁栄に導く神として多くの人々に崇敬され、八幡大神様を祀る神社は全国津々浦々に数万社あるともいわれています。

当宮の御祭神は御本殿中央に応神天皇様、西に比咩大神様、東に神功皇后様をお祀りしています。この御本殿に鎮まる三座の神々を総称して八幡三所大神(八幡大神)様と申し上げます。






伊勢皇大神宮

令和元年5月4日
伊勢皇大神宮 外宮に参詣、
およそ2000年前、垂仁天皇の御代から五十鈴川のほとりに鎮まります皇大神宮こうたいじんぐうは皇室の御祖先であり、我々国民から総氏神のように崇められる天照大御神あまてらすおおみかみをお祀りしています。
内宮の入口である宇治橋をわたり、玉砂利を敷き詰めた長い参道を進むとそこは神域。「心のふるさと」と称される日本の原風景が広がります。





そして内宮参詣


伊勢志摩スカイライン・朝熊山 相差へ


歴史街道いづみ路 南山城村・田山花踊り・六地蔵石仏


室町時代には、南北朝の内乱のきっかけとなった元弘の乱では南山城地域は戦場となり、笠置山寺を焼失させ、貴重な摩崖仏は消失しました。
その中から国人と呼ばれる村に住む武士が台頭し、勢力を伸ばしました。
15世紀後半の応仁・文明の乱は再び山城地域を戦場としましたが、 国人を中心に結束した人々は、軍勢を追い出し地域の自治を行いました。
これがいわゆる山城国一揆です。
江戸時代には、山城地域は豊かな農村地帯となり、木津川水運を利用して、年貢米、木柴・薪・炭、柿渋などを伏見・京都に積み出し、肥料・塩・しょう油など必需品を運び上げました。
また、「京都ゆうゆう宇治田原読本」でも紹介させていただきました「永谷宗円による煎茶製法の改良」によって、山城地域を中心とした地域で作られるお茶は、「宇治茶」と呼ばれ、全国にその名を知られるようになりました。
山城地域は、気象・土壌・地形などの自然条件が、お茶の栽培に適合しており、それぞれの地域性を生かして煎茶・かぶせ茶・玉露・碾茶など各種の茶生産が行われています。
木津川の源流地域とも言われる南山城村(みなみやましろむら)は、京都府相楽郡にある村で、京都府唯一の村となっている。

南山城村には、国道163号線から、恋路橋を渡り、昔から子授けの神として、また婦人病を除く神として信仰されており、後醍醐天皇の寵姫が祀られている戀志谷神社。

毎年11月3日に行われる京都府指定無形民俗文化財【田山花踊り】が奉納される諏訪神社。

そしてその近くには、多くの石仏・子安地蔵・如意輪観音、茶屋出地蔵立像石仏(室町中期の造)、だんだ坂の二尊磨崖石仏、華将寺跡磨崖仏碑、高尾の佛谷・不動明王磨崖仏があります。
また、北大河原には「阿弥陀六地蔵磨崖仏(隠れ地蔵)、野殿には、旧道磨崖仏、野殿・福常寺千体佛、野殿・六所神社、中山峠-石仏などがあなた様のお越しをお待ち申し上げています。

最近の話題は道の駅「お茶の京都 みなみやましろ村」です。
京都でたったひとつの村、南山城村。山に囲まれ、中央に木津川が流れる自然豊かなところ。
三重・奈良・滋賀に隣接し、多様な文化が入り混じっています。その中で村人がせっせと生活を営み続けてきた結果、産まれたものがあります。それを「村のダイジェスト版」として発表する場が道の駅です。山一面に広がる茶畑。米・野菜・保存食を自給自足してきた生きる知恵。家族のためにつくってきたごはん。どれも自然の恩恵を受けてつくりあげてきた、村人の知恵と想いが詰まった「確かにこの土地で産まれたもの」です。私たちはこれらを「つち(土)のうぶ(産)」と銘打ち、こだわりの品をそろえる、わざわざ来ていただけるような道の駅にしていきます。「茶どころなのでやはり、この道の駅の見どころはお茶。品物はお茶を中心に地域の農産物を揃え、名前も『お茶』『京都』『南山城村』というのがパッと伝わるように『村茶』という名前の地域ブランドを作り、隠れたお茶の里をアピールしています。」






歴史街道いづみ路 浄瑠璃寺・岩船寺・当尾の石仏群

平安時代になると、観音信仰の海住山寺(木津川市加茂町)や阿弥陀信仰の浄瑠璃寺(木津川市加茂町)などが信仰を集めました。

阿弥陀信仰の浄瑠璃寺は国宝の阿弥陀如来像を九体も安置しています。(別名九体寺の由来)
さらに、国宝・木造四天王像、国宝・三重塔。

重要文化財に至っては、厨子入木造吉祥天立像、木造地蔵菩薩立像(像高157.6cm)、木造地蔵菩薩立像(像高97.0cm)、木造馬頭観音立像、木造薬師如来坐像 ? 三重塔本尊、三重塔初重壁画 16面、石灯籠 2基 ? 南北朝時代、浄瑠璃寺流記事(附:浄瑠璃寺縁起)- 南北朝時代などがあります。また、【特別名勝・史跡】として「浄瑠璃寺庭園」があります

浄瑠璃寺の近くには「岩船寺」があり、奈良時代、聖武天皇の発願により行基が鳴川の地に建立した阿弥陀堂がその前身であるといわれていて、創建年次については天平元年(729年)もしくは天平勝宝元年(749年)であるようです。
鳴川にはその後、空海(弘法大師)が善根寺(鳴河寺)を建立し、空海の甥であり弟子でもあった智泉が、嵯峨天皇の皇子誕生を祈願して、善根寺の東禅院灌頂堂に報恩院を建立したといわれています。
その報恩院を弘安2年(1279年)に現在地に移し、同8年(1285年)に落慶供養を行ったのが岩船寺です。
重要文化財の三重塔、十三重石塔、五輪塔、石室、木造阿弥陀如来坐像、厨子入木造普賢菩薩騎象像。境内の裏山の白山神社本殿、などを有しています。



鎌倉時代から室町時代にかけて、加茂町当尾に代表されるたくさんの石造仏が造られました。


たかの坊地蔵、やぶの中三尊、阿弥陀地蔵磨崖仏、岩船寺境内石仏、笑い仏、大門仏谷如来形大磨崖仏、首切り地蔵、あたご灯篭、弥勒磨崖仏、水飲み地蔵、クワ地蔵などがあります。






歴史街道いづみ路 笠置山寺・恭仁京・海住山寺

弥勒信仰の笠置山寺(笠置町)、は、天智天皇の第三皇子の川島皇子(657年生)が天武天皇の信任を得て、天武天皇が仏教寺院の整備を進める中で川島皇子の献言によって、帰化人伝来の技術力をもって弥勒像を彫顕し、笠置山寺を白鳳11年(682)草創されたのです。
笠置山寺の本尊・弥勒磨崖仏(日本最古最大級)が幾度かの戦火で尊像が消失して強大な光背のみを残すだけになっていましたが、精華町の合資会社 文化財復元センター様のご尽力によりデジタル画像として復元され笠置山寺本堂に安置されています。

笠置の山峡が急にひらけて、木津川の流れもゆるやかになったあたり、甕に似た地形によって、瓶原と呼ばれたというこの地に奈良時代のはじめ、元明天皇が離宮を設けた所といわれています。ついで聖武天皇が橘諸兄に命じて大養徳宮恭仁大宮を造られたのですが、故あって近江の紫香楽宮に遷されることになり、恭仁京の造営は半ばにして止められたのであります。
それが、恭仁京跡として今に残っています。
また、全国に国分寺を設けよとの詔を下され、この恭仁京跡にも国分寺が建てられました。


こうした由緒ある瓶原を一望におさめる海住山の中腹、幽邃の地に、海住山寺が創建されたのは、恭仁京造宮に先立つ六年前、天平七年(735)のことと伝えられております。
大盧舎那仏造立を発願あそばれた聖武天皇が、その工事の平安を祈るため、良弁僧正に勅して一宇を建てさせ、十一面観音菩薩を安置して、藤尾山観音寺と名づけたのに始まるということです。
その後、七十余年を経た承元二年(1208)十一月、笠置山寺におられた解脱上人貞慶が思うところあってこの観音寺の廃址に移り住み、草庵をいとなんで補陀洛山海住山寺と名づけ、旧寺を中興されて、ここに現在の寺基が定められたのでありました。

国宝(鎌倉時代) 五重塔 重要文化財 十一面観音像(本尊)・十一面観音像(奥の院本尊)・四天王像・文殊堂、絹本著色法華曼荼羅図、海住山寺文書など。
現光寺は、海住山寺からみて南東約3km、木津川市加茂町大字北にある小さな寺院で、海住山寺が管理しています。
その詳しい由緒は明らかでありませんが、元禄10年(1697)に再興された時、海住山寺縁起絵巻の詞書撰者である真敬法親王(興福寺一乗院門跡)が落成を賀したこと、正徳2年(1712)に貞慶上人の五百年忌に際して海住山寺の本堂開帳が行われた時、現光寺の住僧が参詣したことなどは、海住山寺とのつながりのもとで歩んできた歴史を物語っています。







歴史街道いづみ路 恭仁京・神童寺・蟹満寺・大智寺

飛鳥・奈良時代
6世紀半ばに、日本に仏教が伝来し、山城地域にも高麗寺(木津川市山城町)、里廃寺(精華町)などをはじめ、たくさんの寺院が建立されました。
また、山城地域は、大和から東山道・山陽道・山陰道・北陸道方面への重要な交通の要所として、また、淀川・木津川と郡をつなぐ地として栄え、和同開珎を鋳造するための鋳銭司(木津川市加茂町)などが建設されました。

恭仁京(木津川市加茂町)が王城の地として栄えたこともあります。

神童寺は推古天皇四年(596)に聖徳太子が開創し、千手観音を本尊として、大観世音教寺と号した、と伝わります。
数多くの重要文化財を有しています。

また、蟹満寺は白鳳時代末期に国家かそれに準ずる豪族によって建てられたと考えられていて、国宝の釈迦如来坐像(像高2.403m、重さ2tの金銅製)を有しています。

大智寺は、鎌倉時代かつて行基の架けたいわれる泉橋の橋柱をもって文殊菩薩像を刻み、西大寺慈真和尚を開基として橋柱寺と称する一寺を建立されたのが始まりです。






序章 歴史街道いづみ路の歴史と文化

山城地域は京都府の南部地域に位置し、旧国名「山城国」のうち、現在の京都市を除く地域を慣用的に呼びます。
さらに、南山城地域とは、木津川市、精華町、和束町、笠置町、南山城村を指します。

この地域の素晴らしさは、縄文時代から現代までの素晴らしい歴史文化遺産が存在するところです。
そして、木津川(いづみ路)の流れを中心に世界遺産として登録するべき世界に誇る歴史文化財の宝庫でもあります。
この『京都ゆうゆう歴史街道いづみ路』が端緒となって行政区の壁を乗り越えて一致団結して世界遺産登録に立ち向かわれることを念じています。
今回はこれらの優れた歴史文化遺産の中から12か所を選んで記述させていただきました。
京都府山城広域振興局が作成された山城歴史年表をひも解くと、山城地域の縄文時代の姿が浮かび上がってきます。
照葉樹林が広がり、木津川やその周りの沼が多いこの地域では、人々は木々の実や魚、鳥獣を糧に暮らしていました。
木津川市加茂町にある例幣遺跡や下流の城陽市の森山遺跡からは、石器、土器などが出土しています。
椿井大塚山古墳(木津川市山城町)は、三世紀後半の前方後円墳で京都大学文学部考古学研究室が貴重な出土品の三角縁神獣鏡についての研究成果を詳細にまとめられた博物館図録(椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡)として発行されています。
弥生時代になると瀬戸内海、大阪湾を経由して淀川、木津川を遡上した人々が、ムラを形作っていきます。
木津川市の城山遺跡や京田辺市の天神山遺跡などのように水田部から離れた丘陵部に多くのムラが誕生しました。
特に木津川を望む丘陵には、数多くの集落が並び立ちました。
古墳時代(3世紀)には、大和王権と関わりの深い椿井大塚山古墳(木津川市山城町)や久津川車塚古墳(城陽市)など大規模な前方後円墳が築かれました。
椿井大塚山古墳では、日本では最高の32面以上の三角縁神獣鏡が出土しました。卑弥呼の時代の大きなロマンを感じることができます。



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