南都大安寺


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楠公研究会代表理事・楠木正成公三男正儀流25代嫡孫・山下弘枝さんは南都大安寺にいます。2018年6月23日 ・ 奈良県 奈良市

南都七大寺の一つ・大安寺の「竹供養」へ参詣、河野貫主様にもご挨拶。

癌封じのご利益のある笹酒をいただき、笹の香りがほんのりとするお酒にて滋養の恵みを受ける事ができました。

境内には多くの屋台も並び、大和名物「めはり寿司」をいただきました。

今日の着物は、七夕をイメージした取り合わせで。



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蘇りの地・神魂神社 〜現存最古の大社造り

古代出雲の中心地・出雲国府の程近くに鎮座する神魂(かもす)神社へ。

主祭神は、伊弉冊大神(イザナミノミコト)と伊弉諾大神(イザナギノミコト)。
もとは天穂日命(アメノホヒノミコト)がこの地に天降り創建したと伝わります。
天穂日命の子孫である出雲国造家が25代にわたって神魂神社に奉仕されました。
やがて、出雲国造家が出雲大社の祭祀を斎行する為に大社の鎮座する地に移った後も「神火相続式」(火継式)や「古伝新嘗祭」の際には当社に参向されて来られました。
それほどまでに、神魂神社と出雲大社との関わりは深いのです。

神魂神社の本殿は出雲大社本殿と並んで国宝に指定されています。
特に、神魂神社の本殿は天正11年(1583年)の再建であり、一説には正平元年(1346年)まで遡るともされています。

出雲の中枢に於いて創造神・伊弉冊命を祀るこの地は、蘇りの聖地であります。

神魂神社へお連れくださり、お写真をお撮りくださいました俵屋工房・高橋様に厚く深謝申し上げます。

第23回楠公研究会のドキュメンタリー動画を公開

YouTubeチャンネルにて、第23回楠公研究会のドキュメンタリー動画を公開致しました。宜しければチャンネル登録、ご高覧下さいませ。

戦後、非理法権天旗は江戸期の創作であるという学界の新見解が罷り通っていましたが、真実は、大楠公自身の真筆の非理法権天旗がここに現存してるという事が真実です。
戦後の歴史観の歪みの象徴と言えましょう。

大楠公所持の宝刀「菊一文字」松帆神社

松帆神社の社宝、名刀「菊一文字」は、承元時代(1207~1211年・鎌倉時代初期)作の古刀である。

時の後鳥羽上皇は全国より名刀工を召し出され御番鍛冶とし、共に親しく鍛刀遊ばされたが、その折の筆頭御番鍛冶であった備前福岡一文字派の祖である則宗の作と見られる。

刀姿には云うべからざる尊厳の気品を蔵し、その淬刀(やきは)は杢目肌(もくめはだ)に大模様の肌交わる丁子乱(ちょうじみだれ)で、あたかも朝日に匂う山桜のような荘厳華麗な刃文を有する点、世界に冠たる日本刀の神髄を発揮している。

古来、「八幡宮(松帆神社旧社名)には名刀あり」との口伝・噂はあったものの何処にあるどんなものかは判然としなかったが、昭和8年に偶然松帆神社本殿奥の内陣より発見された。
その際に鑑定にあたられた鑑刀宗家 本阿弥光遜(ほんあみこうそん)氏は「在銘にしてかかる優れた出来栄えのものにはここ数年接した事がない。
七百有余年を経て、なを且つ生(うぶ)に等しい刀姿は余程手持ちが良かったこともあろうが、宝刀の宝刀たる所以でもある。
かかる尊貴の御刀が出てきたからにはさぞかし由緒ある神社に相違ない」と激賞され、「菊御作」「正真」との鑑定をいただいた。

また、当時の文部省国宝保存課刀剣主査 本間順治博士からも「間違いなく菊一文字で、鞘(さや)・柄(つか)・鍔(つば)の拵(こしらえ)も刀身に劣らぬ世に珍しいもので、両々相まって重要美術品に認定する」との評価をいただき、昭和10年5月20日付で国の重要美術品に認定された。

当時、突然の発見であった事もありその由来には様々な説が出たが、
(1)菊一文字の非常な希少性(有力大名・大財閥でなければ入手不可能と言われた) (2)吉川弥六の末裔吉川家に、「菊一文字は落人間で廻し持ちして隠し、その後領主を通じて八幡宮に奉納した」との口伝がある事の主に2点より、菊一文字は建武中興の恩賞として賜ったであろう大楠公遺愛の太刀として伝えるところとなった。

管理に細心の注意を必要とする貴重な名刀という事情もあり、松帆神社では10月第1週日曜日の例祭の日に限り宝物殿を開放し菊一文字の一般公開を行っている。
※例祭当日以外の菊一文字観覧はできませんのでご注意下さい。
代わりに、社務所に菊一文字関連資料を常設展示しております。

黄泉比良坂

島根県松江市東出雲町は、黄泉比良坂があった場所として、1940年に「神蹟黄泉比良坂伊賦夜坂伝説地」の石碑を同町揖屋に建立した。
同地には、千引の岩とされる巨石も置いてある。
近くには、伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀る揖夜神社もある。
2010年の日本映画『瞬 またたき』では、亡くなった恋人に会いたいと願う主人公が訪ねる場所のロケ地として使われた。

年越大祓を直前に控え、一年に知らず知らずのうちに積もった罪穢れを祓うべく、黄泉がえりの地である黄泉比良坂へ。

伊邪那岐命が魔除の桃を投じ、黄泉国から蘇った地。
この地には、今も尚、当時を偲ぶ原種の桃が植わっています。

黄泉比良坂から更に奥へ、薄暗い伊賦夜坂を進む。。
そこには、賽の神が祀られており、賽の河原の源流として、小石が積まれていました。
伊邪那岐命が黄泉比良坂で「ここから入って来てはならぬ」と言って投げた杖から出現した神であると記されています。
地元では、この道を通るときは賽の神小石を積んで通るという風習が今も残っています。

暗い黄泉比良坂を出て、再び、明るい所へ戻って来た時には、心身の根底から祓い清められた清浄な心地となりました。

もうすぐ年越の大祓。
今年も一年、御縁を賜り誠にありがとうございました。
来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
では、皆様、どうぞ良き年をお迎えください。

包囲軍の疲弊・撤退

包囲軍の疲弊・撤退
やがて、護良親王の命を受けた吉野、十津川、宇陀、宇智郡(内郡)の野伏が楠木軍に味方し、幕府軍の糧道を遮断した。
このため、包囲している幕府軍の人馬が逆に飢えるようになり、毎日のように1、200騎が包囲軍から逃げるようになったが、地理に明るい野伏に襲われて討ち取られるか、馬や甲冑、衣服をはぎ取られる有様だった。

千早城へ釘付けになっている幕府軍の間隙を縫い、後醍醐天皇(先帝)が閏2月24日に隠岐国の配所を脱出し、船上山に入った。


『後醍醐天皇像図』

後醍醐天皇は討幕の綸旨を全国に発し、これに播磨国赤松則村、伊予国河野氏、肥後国菊池武時が蜂起すると、千早城を囲んでいた大名が相次いで帰国した。
そして、5月7日に足利高氏によって京の六波羅探題が陥落させられた。

5月8日午の刻(午後12時頃)、足利高氏によって六波羅が陥落したという報せが千早城の籠城軍、そして包囲していた幕府軍にも伝わった。
幕府軍の諸将は相談し、一日でも退却が遅れれば野伏が多数集結して山中の道が危なくなる可能性があるとして、千早城からの撤退を決めた。

5月10日早朝、幕府軍の諸将は陣を撤収して、10万騎の軍勢は南都(奈良)へと引き上げた。
だが、大軍が退却する当たり大混乱が起き、岩場に突き当たって止む無く腹を切るもの、谷底に落ちるもの、他人に踏み殺される者、あるいは野伏に襲われるものが続出したが、ただの一戦も交えなかった、と『太平記』は語っている。
結局、大勢の兵が退却にあたり死亡したが、包囲軍の主だった将は戦死せず、同日夜半に南都に到着した。

5月8日、関東において挙兵した新田義貞が手薄となった鎌倉を攻め、5月22日に鎌倉幕府は滅亡することとなる。
新田義貞の挙兵は、楠木正成討伐のために膨大な軍資金が必要になった幕府が新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなって幕吏を殺害・投獄したことに端を発していた。

鎌倉幕府が滅亡したのは、千早城の戦いが終了した12日後のことであった。

長梯子の計と火計

長梯子の計と火計

千早城合戦図(長梯子の計の場面が描かれている)/湊川神社蔵、歌川芳員画

包囲軍の持久戦に対して、同年3月4日に鎌倉より「戦をせずにただ時を過ごすとは何事か。すぐに城を攻略せよ」と厳しい下知が届き、将士を督励することになった。

そこで包囲軍の諸将らは相談し、味方の戦線である近くの山より城壁ヘ橋を掛けて一気に攻め上る計画を立てた。京より大工衆500余人を呼び集められ、五、六寸(約15、16cm)や八、九寸(約24、27cm)の材木を集め、広さ一丈五尺(約4.8m)、長さ20丈余(約66m以上)の橋を造った[1]。 完成後、橋に大縄を二、三千本結び付けたのち、車木(滑車か)を用いて橋を巻き上げ、城の崖に倒して橋を架け、兵たち5、6千人が城内へ向かって殺到した。

楠木正成はかねてより用意していた松明に火をつけて、薪を積み上げるように投げ、 水鉄砲の中に油を入れて橋に注いだ。
城内にたどり着こうとしていた兵は後ろに下がろうとしても後陣が続いており、飛び降りようにも谷深く、もたもたしていると谷風に煽られた火により橋が中ほどより折れ、数千人が橋とともに猛火に落ち重なって焼死した、と『太平記』に記している。

『太平記』以外の史料に「長梯子の計」の記述が無いことから信憑性に疑問があるが、本丸の北側の渓谷は谷が深く、北谷川上流の風呂谷には「懸橋」という地名が残っていることから、『千早赤坂の史跡』によると「太平記には誇張はあるにしても実際に実行されたと考えられる」としている。


『千早城合戦図』(長梯子の計の場面が描かれている)

湊川神社蔵、歌川芳員画

断水作戦の失敗

断水作戦の失敗

その後、金沢貞冬(あるいは阿蘇治時)が大仏貞直に赤坂城の例にならい水源を断つべきと申したため、名越時見に3,000人の兵で水辺に陣を構えさせ、城から降りてくる兵を討とうとした。
鎌倉幕府軍は水源を断つ持久戦に切り替えたが、城内には大木をくり抜き300もの木船が水もたたえており、食料も十分蓄えていた。

名越軍は当初は緊張の中で毎夜を過ごしていたが、だんだんと気が緩み、楠木正成はこの機を逃さず、2、300人を闇に紛れて城から下ろし、世の明けきらないときに襲わせた。

楠木軍は水辺で警戒していた兵ら20余人を切り伏せたのをはじめ休む間もなく斬りかかり、名越軍は持ちこたえることが出来ず、元の陣まで退却した。

楠木軍は混乱のなか、名越軍の旗や大幕などを奪って城へと引き上げた。

翌日、楠木軍は城の正面に名越軍から奪った旗と大幕を並べ、取りに来るように声を上げてからかった。

見ていた幕府軍の武士は非常に情けなくも不憫に思ったが、名越家の人々はこれに激怒し、軍に「一人残らず討ち死にせよ」と突撃を命じた。

名越軍総勢5000騎は味方の死体を乗り越えながらも城の逆茂木を破壊し、城の崖下まで攻め込んだが、崖は高く切り立っているので登ることができなかった。

その時、楠木軍は崖の上に横たえて繋ぎとめてあった大木を十本ほど切り落とし、これによって名越軍4、500人ほどが圧死した。
大木を避けようとする兵に四方八方の櫓から矢を射かけ、名越軍は残り少なくなるまで討たれて、この日の戦闘は幕府軍の惨敗に終わった。

長崎高貞はこれを見て、城を力攻めすればいたずらにこちらだけが兵を失うので、戦闘を行わずに包囲のみして兵糧攻めにするように命じた。

そうすると幕府の兵ら時間を持て甘まし、長崎師宗が連歌を読んだのをはじめ、連歌を好むものが集まり、一万句の連歌会を始めた。
兵たちは皆それぞれ、碁や双六、茶の飲み分け勝負、歌会などをし、気ままに過ごすようになった。

『大楠公一代絵巻』(千早城内でわら人形を作っている光景)

楠妣庵観音寺蔵、土佐光成筆

千早城の包囲・攻撃

千早城の包囲・攻撃

赤坂城の陥落後、包囲していた幕府軍は千早城へと出軍し、吉野から来た軍勢もまた千早城に駆け付けた。
『太平記』によると総勢100万と号する大軍が千早城を包囲し、籠城側・楠木軍は僅か千人足らずの小勢で守ったとされる。
「城の四方ニ三里が間は見物相撲の場の如く、打井んで尺寸の地をも余さず充満せり」
とあり、数十倍の大軍が千早城に押し寄せて来た様子がうかがえる。

赤坂城で勝利した勢いで鎌倉幕府軍は一気に攻略しようと、ろくに陣も構えず、我先にと攻城した。
千早城では櫓より大石を投げ落として敵の楯を砕き、逃げ惑う兵には矢を降りそそぎ、谷底に死体の山がうず高く重なった。
「長崎四郎左衛門尉、軍奉行にてありければ、手負死人の実検をなしけるに、執筆十二人昼夜三日が間筆をも置かず」と太平記にあり、長崎高貞が死者の数を確認するのに書記12名が昼夜3日間筆が離せなかったほどと言われている。

そのため、今後は総大将の許可なく合戦を行う者は罪に問うと触れを出したため、戦いはしばらく休戦状態となった。


『大楠公への敬愛』

千早城合戦図

河内千破城図


河内千破城図

やがて、北条高時は畿内で反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に30万余騎の追討軍を東国から派遣した。
これに対し、楠木正成は河内国の赤坂城の詰めの城として、千早城をその背後の山上に築いた。

楠木正成は金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、千早城、上赤坂城、下赤坂城の3城を以て幕府に立ち向かうことにした。

元弘3年/正慶2年(1333年)2月以降、楠木正成は赤坂城や金剛山中腹に築いた千早城で幕府の大軍と対峙し、ゲリラ戦法や落石攻撃、火計などを駆使して幕府の大軍を相手に一歩も引かず奮戦した(千早城の戦い)。
楠木正成は後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、 大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに幕府勢力に果敢に立ち向かい、同年閏2月に後醍醐天皇は隠岐を脱出した。

護良親王

幕府の軍勢が千早城に釘付けになっている間、楠木正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、赤松円心ら反幕勢力が挙兵した。
5月7日には足利高氏(のち尊氏)が六波羅を攻め落とし、京から幕府勢力は掃滅された。5月10日、六波羅陥落の報が千早城を包囲していた幕府軍にも伝わり、包囲軍は撤退し、楠木軍の勝利に終わった。

足利 尊氏

そして、5月22日に新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたが、その挙兵は楠木正成の奮戦に起因するものであった。
楠木正成の討伐にあたって膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなった新田義貞が幕吏を殺害・投獄して反旗を翻したのである。

新田義貞

楠木正成は後醍醐天皇が京へ凱旋する際、6月2日に兵庫で出迎え、道中警護についた。

天皇が兵庫を出発して以降、楠木正成はその行列の先陣を務め、その後陣には畿内の軍勢7千騎を引き連れていた。