包囲軍の疲弊・撤退

包囲軍の疲弊・撤退
やがて、護良親王の命を受けた吉野、十津川、宇陀、宇智郡(内郡)の野伏が楠木軍に味方し、幕府軍の糧道を遮断した。
このため、包囲している幕府軍の人馬が逆に飢えるようになり、毎日のように1、200騎が包囲軍から逃げるようになったが、地理に明るい野伏に襲われて討ち取られるか、馬や甲冑、衣服をはぎ取られる有様だった。

千早城へ釘付けになっている幕府軍の間隙を縫い、後醍醐天皇(先帝)が閏2月24日に隠岐国の配所を脱出し、船上山に入った。


『後醍醐天皇像図』

後醍醐天皇は討幕の綸旨を全国に発し、これに播磨国赤松則村、伊予国河野氏、肥後国菊池武時が蜂起すると、千早城を囲んでいた大名が相次いで帰国した。
そして、5月7日に足利高氏によって京の六波羅探題が陥落させられた。

5月8日午の刻(午後12時頃)、足利高氏によって六波羅が陥落したという報せが千早城の籠城軍、そして包囲していた幕府軍にも伝わった。
幕府軍の諸将は相談し、一日でも退却が遅れれば野伏が多数集結して山中の道が危なくなる可能性があるとして、千早城からの撤退を決めた。

5月10日早朝、幕府軍の諸将は陣を撤収して、10万騎の軍勢は南都(奈良)へと引き上げた。
だが、大軍が退却する当たり大混乱が起き、岩場に突き当たって止む無く腹を切るもの、谷底に落ちるもの、他人に踏み殺される者、あるいは野伏に襲われるものが続出したが、ただの一戦も交えなかった、と『太平記』は語っている。
結局、大勢の兵が退却にあたり死亡したが、包囲軍の主だった将は戦死せず、同日夜半に南都に到着した。

5月8日、関東において挙兵した新田義貞が手薄となった鎌倉を攻め、5月22日に鎌倉幕府は滅亡することとなる。
新田義貞の挙兵は、楠木正成討伐のために膨大な軍資金が必要になった幕府が新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなって幕吏を殺害・投獄したことに端を発していた。

鎌倉幕府が滅亡したのは、千早城の戦いが終了した12日後のことであった。

長梯子の計と火計

長梯子の計と火計

千早城合戦図(長梯子の計の場面が描かれている)/湊川神社蔵、歌川芳員画

包囲軍の持久戦に対して、同年3月4日に鎌倉より「戦をせずにただ時を過ごすとは何事か。すぐに城を攻略せよ」と厳しい下知が届き、将士を督励することになった。

そこで包囲軍の諸将らは相談し、味方の戦線である近くの山より城壁ヘ橋を掛けて一気に攻め上る計画を立てた。京より大工衆500余人を呼び集められ、五、六寸(約15、16cm)や八、九寸(約24、27cm)の材木を集め、広さ一丈五尺(約4.8m)、長さ20丈余(約66m以上)の橋を造った[1]。 完成後、橋に大縄を二、三千本結び付けたのち、車木(滑車か)を用いて橋を巻き上げ、城の崖に倒して橋を架け、兵たち5、6千人が城内へ向かって殺到した。

楠木正成はかねてより用意していた松明に火をつけて、薪を積み上げるように投げ、 水鉄砲の中に油を入れて橋に注いだ。
城内にたどり着こうとしていた兵は後ろに下がろうとしても後陣が続いており、飛び降りようにも谷深く、もたもたしていると谷風に煽られた火により橋が中ほどより折れ、数千人が橋とともに猛火に落ち重なって焼死した、と『太平記』に記している。

『太平記』以外の史料に「長梯子の計」の記述が無いことから信憑性に疑問があるが、本丸の北側の渓谷は谷が深く、北谷川上流の風呂谷には「懸橋」という地名が残っていることから、『千早赤坂の史跡』によると「太平記には誇張はあるにしても実際に実行されたと考えられる」としている。


『千早城合戦図』(長梯子の計の場面が描かれている)

湊川神社蔵、歌川芳員画

断水作戦の失敗

断水作戦の失敗

その後、金沢貞冬(あるいは阿蘇治時)が大仏貞直に赤坂城の例にならい水源を断つべきと申したため、名越時見に3,000人の兵で水辺に陣を構えさせ、城から降りてくる兵を討とうとした。
鎌倉幕府軍は水源を断つ持久戦に切り替えたが、城内には大木をくり抜き300もの木船が水もたたえており、食料も十分蓄えていた。

名越軍は当初は緊張の中で毎夜を過ごしていたが、だんだんと気が緩み、楠木正成はこの機を逃さず、2、300人を闇に紛れて城から下ろし、世の明けきらないときに襲わせた。

楠木軍は水辺で警戒していた兵ら20余人を切り伏せたのをはじめ休む間もなく斬りかかり、名越軍は持ちこたえることが出来ず、元の陣まで退却した。

楠木軍は混乱のなか、名越軍の旗や大幕などを奪って城へと引き上げた。

翌日、楠木軍は城の正面に名越軍から奪った旗と大幕を並べ、取りに来るように声を上げてからかった。

見ていた幕府軍の武士は非常に情けなくも不憫に思ったが、名越家の人々はこれに激怒し、軍に「一人残らず討ち死にせよ」と突撃を命じた。

名越軍総勢5000騎は味方の死体を乗り越えながらも城の逆茂木を破壊し、城の崖下まで攻め込んだが、崖は高く切り立っているので登ることができなかった。

その時、楠木軍は崖の上に横たえて繋ぎとめてあった大木を十本ほど切り落とし、これによって名越軍4、500人ほどが圧死した。
大木を避けようとする兵に四方八方の櫓から矢を射かけ、名越軍は残り少なくなるまで討たれて、この日の戦闘は幕府軍の惨敗に終わった。

長崎高貞はこれを見て、城を力攻めすればいたずらにこちらだけが兵を失うので、戦闘を行わずに包囲のみして兵糧攻めにするように命じた。

そうすると幕府の兵ら時間を持て甘まし、長崎師宗が連歌を読んだのをはじめ、連歌を好むものが集まり、一万句の連歌会を始めた。
兵たちは皆それぞれ、碁や双六、茶の飲み分け勝負、歌会などをし、気ままに過ごすようになった。

『大楠公一代絵巻』(千早城内でわら人形を作っている光景)

楠妣庵観音寺蔵、土佐光成筆

千早城の包囲・攻撃

千早城の包囲・攻撃

赤坂城の陥落後、包囲していた幕府軍は千早城へと出軍し、吉野から来た軍勢もまた千早城に駆け付けた。
『太平記』によると総勢100万と号する大軍が千早城を包囲し、籠城側・楠木軍は僅か千人足らずの小勢で守ったとされる。
「城の四方ニ三里が間は見物相撲の場の如く、打井んで尺寸の地をも余さず充満せり」
とあり、数十倍の大軍が千早城に押し寄せて来た様子がうかがえる。

赤坂城で勝利した勢いで鎌倉幕府軍は一気に攻略しようと、ろくに陣も構えず、我先にと攻城した。
千早城では櫓より大石を投げ落として敵の楯を砕き、逃げ惑う兵には矢を降りそそぎ、谷底に死体の山がうず高く重なった。
「長崎四郎左衛門尉、軍奉行にてありければ、手負死人の実検をなしけるに、執筆十二人昼夜三日が間筆をも置かず」と太平記にあり、長崎高貞が死者の数を確認するのに書記12名が昼夜3日間筆が離せなかったほどと言われている。

そのため、今後は総大将の許可なく合戦を行う者は罪に問うと触れを出したため、戦いはしばらく休戦状態となった。


『大楠公への敬愛』

千早城合戦図

河内千破城図


河内千破城図

やがて、北条高時は畿内で反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に30万余騎の追討軍を東国から派遣した。
これに対し、楠木正成は河内国の赤坂城の詰めの城として、千早城をその背後の山上に築いた。

楠木正成は金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、千早城、上赤坂城、下赤坂城の3城を以て幕府に立ち向かうことにした。

元弘3年/正慶2年(1333年)2月以降、楠木正成は赤坂城や金剛山中腹に築いた千早城で幕府の大軍と対峙し、ゲリラ戦法や落石攻撃、火計などを駆使して幕府の大軍を相手に一歩も引かず奮戦した(千早城の戦い)。
楠木正成は後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、 大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに幕府勢力に果敢に立ち向かい、同年閏2月に後醍醐天皇は隠岐を脱出した。

護良親王

幕府の軍勢が千早城に釘付けになっている間、楠木正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、赤松円心ら反幕勢力が挙兵した。
5月7日には足利高氏(のち尊氏)が六波羅を攻め落とし、京から幕府勢力は掃滅された。5月10日、六波羅陥落の報が千早城を包囲していた幕府軍にも伝わり、包囲軍は撤退し、楠木軍の勝利に終わった。

足利 尊氏

そして、5月22日に新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたが、その挙兵は楠木正成の奮戦に起因するものであった。
楠木正成の討伐にあたって膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなった新田義貞が幕吏を殺害・投獄して反旗を翻したのである。

新田義貞

楠木正成は後醍醐天皇が京へ凱旋する際、6月2日に兵庫で出迎え、道中警護についた。

天皇が兵庫を出発して以降、楠木正成はその行列の先陣を務め、その後陣には畿内の軍勢7千騎を引き連れていた。

赤坂城の奪還、和泉・河内の制圧

赤坂城の奪還、和泉・河内の制圧
楠木正成は赤坂城の落城後、しばらく行方をくらました。
同年末、後醍醐方の護良親王から左衛門尉を与えられた

元弘2年/元徳4年(1332年)4月3日、正成は湯浅宗藤の依る赤坂城を襲撃した。
正成は赤坂城内に兵糧が少なく、湯浅宗藤が領地の阿弖河荘から人夫5~6百人に兵糧を持ち込ませ、夜陰に乗じて城に運び入れることを聞きつけ、その道中を襲って兵糧を奪い、自分の兵と人夫やその警護の兵とを入れ替え、空になった俵に武器を仕込んだ。

楠木軍は難なく城内に入ると、俵から武器を取り出して鬨の声を上げ、城外の軍勢もまた同時に城の木戸を破った。
これにより、湯浅宗藤は一戦も交えることなく降伏し、楠木正成は赤坂城を奪い返した。

楠木勢は湯浅氏を引き入れたことで勢いづき、瞬く間に和泉・河内を制圧し、一大勢力となった。
そして、5月17日には摂津の住吉・天王寺に進攻し、渡部橋より南側に布陣した。

京には和泉・河内の両国からは早馬が矢継ぎ早に送られ、正成が京に攻め込むと可能性があると知らせたため、洛中は大騒ぎとなった。
このため、六波羅探題は隅田、高橋を南北六波羅の軍奉行とし、5月20日に京から5千人の軍勢を派遣した。

5月21日、六波羅軍は渡部橋まで進んだが、渡部橋の南側に楠木軍は300騎しかおらず、兵らは我先にと川を渡ろうとした。
だが、これは楠木正成の策略で、前日に、主力軍は住吉、天王寺付近に隠して2,000余騎の軍勢を三手に分けており、わざと敵に橋を渡らせてから流れの深みに追い込み、一気に雌雄を決すという作戦であった。
楠木正成は敵の陣形がばらけたところで三方から攻め立て、大混乱に陥った敵は大勢が討たれ、残りは命からがら京へと逃げ帰った。

その後、六波羅は隅田、高橋の敗北を見て、武勇で誉れ高い宇都宮高綱(のち公綱)に正成討伐を命じ、7月19日に宇都宮は京を出発した。
宇都宮は天王寺に布陣したが、その軍勢は600~700騎ほどであった。


【宇都宮高綱】

和田孫三郎は楠木正成に戦うことを進言したが、楠木正成は宇都宮が坂東一の弓取りであること、そして紀清両党の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評してその武勇を恐れ、「良将戦わずして勝つ」と述べた。
その後、夜にあちこちの山で松明を燃やし、宇都宮がいつ攻めてくるのかわからないような不安に陥らせ、三日三晩これを行った。

7月27日夜半、宇都宮がついに兵を京へ引くと、翌朝には正成が天王寺に入れ替わる形で入った。
正成は天王寺に進出してからその勢いをさらに増したが、庶民に迷惑をかけてはならぬと部下には命じており、すべての将兵に礼を以て接したため、その勢いはさらに強大となった。

8月3日、楠木正成は住吉神社に馬3頭を献上し、翌日には天王寺に太刀と鎧一領、馬を奉納した[

笠置山・赤坂城の戦い

元徳3年(1331年)9月、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇らは捕えられ、残る正成は赤坂城(下赤坂城)にて幕府軍と戦った(赤坂城の戦い)。


【笠置山の戦い】

幕府軍は当初、一日で決戦をつけることができると判断し、すぐさま攻撃を開始した

だが、楠木正成は寡兵ながらものその攻撃によく耐えた。
敵が城に接近すれば弓矢で応戦し、その上城外の塀で奇襲を仕掛けた。

敵が堀に手を掛ければ、城壁の四方に吊るされていた偽りの塀を切って落とし敵兵を退け、上から大木や大石を投げ落とした。
これに対し、敵が楯を用意して攻めれば、塀に近づいた兵に熱湯をかけて追い払った。
楠木正成のこれらの一連の攻撃により、幕府軍の城攻めは手詰まりに陥った。


【赤坂城の戦い.jpg】

新井孝重は、一土豪に過ぎない楠木正成に関東から上洛した軍勢が束になって攻撃を仕掛けたことに注目している。
単なる悪党の蜂起であるならばこれほどの大軍勢の投入は有り得ず、楠木正成の尋常ならざる実力の証左であるとしている。
楠木正成はかつて幕府に反逆した武士を次々に討伐した合戦の名人であり、鎌倉は明らかに楠木正成を大いなる脅威と認識していたと考えられる。

しかし、赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、 同年10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち、幕府軍に城を奪わせた。
鎌倉幕府は赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体を20-30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に関東へ帰陣した。

万里小路藤房が勅使として笠置山から河内に向かう


【万里小路藤房】

万里小路藤房が勅使として笠置山から河内に向かい、正成の館に着いてその事情を説明した。
すると、楠木正成は「弓矢取る身であれば、これほど名誉なことはなく、是非の思案にも及ばない」と快諾した。

そして、楠木正成は人に気が付かれないようにすぐさま河内を出て、笠置山に参内した。

楠木正成は後醍醐天皇から勅使派遣より時を置かずに参内したことを褒められ、そのうえで楠木正成がどのような計画を持ち、勝負を一気に決めて天下を太平にするのかを問われた。
楠木正成はこの問いに対し、「幕府の大逆は天の責めを招き、衰乱の機会に乗られて天誅が下されます。
その好機なら必ず滅ぼすことができます。
天下草創には武略と智謀の2つがあります。
勢いに任せて合戦を行えば、たとえ60余州の軍勢をもってしても武蔵・相摸の領国に勝利を得ることはできないでしょう。
もし何らかの策を用いて戦えば、幕府は守勢に回って欺きやすくなり、怖れるに足らなくなるでしょう。
合戦の常は個々の勝敗にこだわらないことです。
(たとえ戦いで敗れたとしても)楠木正成がたった一人生存していれば、後醍醐天皇の聖運が必ず開けると御思い下さい」と述べた。
そして、楠木正成は河内に戻り、赤坂城(下赤坂城)で挙兵した。


【大楠公 – 日本の漢詩】

元弘の乱

元弘元年8月24日(1331年9月26日)、後醍醐天皇は側近とともに京を脱出した。
幕府側の追跡をかわすために天皇に変装した花山院師賢は比叡山へ向かった。
天皇は四条隆資らとともに奈良東大寺を経て鷲峰山金胎寺に移り8月27日(9月29日)には笠置山に至った。
後醍醐天皇が笠置山に籠ると、笠置寺の衆徒や近国の豪族らが兵を率いて駆けつけてきたが、名ある武士や、百騎、二百騎を率いた大名などは一人も来なかった。

そのため、後醍醐天皇は皇居の警備もままならないと不安になり、心配になって休んだ際に夢を見た。


【後醍醐帝笠置山皇居霊夢之圖】

その夢の中では、庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思っていた。

すると童子が来て「その席は後醍醐天皇のために設けられたものだ」と言って空に上って行っていなくなってしまった。

夢から覚めて、後醍醐天皇は夢の意味を考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、 河内国石川郡金剛山(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に橘諸兄の子孫とされる楠木正成(楠正成)という者がいるというので、後醍醐天皇はその夢に納得し、すぐさま楠木正成を笠置山に呼び寄せる事にした。

【非理法権天】

【非理法権天】
楠木正成公が旗印として記した語で、非は理に及ばず、理は法に及ばず、法は権に及ばず、権は天に及ばずといった意味です。
国は天子(天皇)によって成り立っているものであり、人々は天に背くことは許されないということを表しています。

この国(天皇)に忠義を示す精神で統一されていたことが、正成軍の、大軍とはいえ命令によって動いているだけの烏合の衆ともいえる軍に、少数の兵力で勝利できた理由だったのかもしれません。